賀川豊彦全集一粒の麦死線越えて聖書

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賀川豊彦

賀川豊彦

1888年7月10日-1960年4月23日

賀川豊彦は大正・昭和期のキリスト教社会運動家。
若き日、当時日本最大のスラム街だった神戸・新川で貧しい人たちと寝食を共にし、自分の福や金を分け与え神の教えを説いた。

賀川豊彦の業績は、

など多岐にわたっている。

「日本のガンジー」と呼ばれ、ノーベル平和賞の候補にも挙げられた「世界のカガワ」である。また、宗教、哲学、経済、社会、文明批評、随筆、小説など200冊にわたる作品を発表し、死後に遺した。

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略歴

1888年(明治21)0歳
7月10日、神戸市兵庫島上町108屋敷で父賀川純一、母菅生(かおう)カメの次男として生まれる。
父は元老院御権少書記官、名東県(徳島県の前名)高松支庁長を歴任後、回漕店(船舶輸送)を経営。

1892年(明治25)4歳
父賀川純一病死(44歳)

1893年(明治26)5歳
母他界。
兄弟は急逝によって親類に別々に引き取られた。賀川家の本家に引き取られた豊彦は祖母せいと義母みちに育てられたが淋しい少年時代を過ごす。
傷心の豊彦を慰めたものは旧吉野川の自然と生息する動植物だった。

1900年(明治33)12歳
名門徳島中学(現県立城南高校)に入学。

1903年(明治36)15歳
兄端一の経営する神戸の賀川回漕店が破産、東馬詰の賀川家の土地家屋は他人の手に渡る。
当時結核に冒されていた豊彦は兄からの仕送りが止まる。この当時英語の学びに行っていた宣教師ローガンとマヤスとの出会いが彼の生涯を決定する出会いとなる。マヤス夫妻は豊彦を我が子のように愛し家族の一員として家に招き入れ、共に祈りの生活をするようになる。

1905年(明治38)17歳
キリスト教の明治学院に進学。
これは叔父の激怒にふれ学費の支援を拒絶される。宣教師マヤスの援助により無事明治学院神学部に入学。
マヤス夫妻の熱い愛に賀川豊彦の心は潤され魂の成長期を迎える。
夫妻の根底にあるものはキリストの愛に根ざしていることを確信する。
やがて夫妻のもとでキリストの洗礼を受ける。

1906年(明治39)18歳
徳島新聞に「ラスキンの女子教育観」を17回の連載で執筆。
豊彦は徳島中学時代ラスキンの「胡麻と百合」を抄訳。

1907年(明治40)19歳
マヤスの教える神戸神学校に入学。
路傍伝道を続けて大喀血し入院。

1908年(明治41)20歳
蒲郡のあばら家で静養。
このころ執筆したのが「鳩の真似」後の「死線を越えて」である。療養中に長尾巻牧師一家の家族をあげての厚い看護、さらに長尾巻の信者への献身的姿勢と行動に圧倒される。後日賀川は「日本中の牧師で自分が一番感心し、自分が一番感化を受けたのは長尾巻である」と述べている。
―いつも乞食を泊めるので蚤と虱がわき、(略)自分は彼の中に平凡人が歩む最高の生命芸術をみたのである―
汝純潔を求むか、それとも不良に傾くを意とせざるか。もし汝が汚れかかった心を払い清めて純潔の生涯に入りたいと思うならば、野に咲く百合の気持になって天地を見直せ 賀川豊彦の自問自答である。
自作「死線を越えて」を島崎藤村に持参するも評価得られず、出版の希望も根底から崩れ挫折。身はイエスに生きんとすれど貧しきものは天国に通し。
肉はアア滅びぬ。他に霊もらん器もなし 眼をすえて 自滅の最後 微笑えみて待つ
さらにこの頃、追い討ちをかける様に肺病患者排斥運動が起こる。
家を探すべく命ぜられんとす 自殺と忍耐で一日過ごす(明治42年1月20日の日誌)一ヶ月丁度寝た 一ヶ月経済で苦しんだ 今日も泣いて一日寝た
病院へも行かず いよいよ余命も無しの心境
だが、絶望の淵から驚異の世界へ甦る事件が起きた。いよいよ死を覚悟して沈む夕日を凝視している其の時だった。光が賀川豊彦の目に輝き入ってきたと思う瞬間、部屋中光の波で溢れだした。瞬間、口から真っ赤な血痰がどっと出た。
何の苦しみもなく呼吸は正常に動き出した。心身実に平安なひと時訪れた。
生命力が甦ってきた。彼は否定の世界からすべて肯定の世界へと心が高ぶっていくのを感じた。彼は強く生きんと決心させられた。自殺する勇気を持ってすべてに向かっていこうと心が固まった。いよいよ余命無しの心境から貧民屈へと心が高まった。この頃彼の心に貧しい者への友としての14年間のスラムでの実際生活が始まった。神と共に。

1909年(明治42)21歳
神戸スラム入り。
想像を絶するほどの貧民屈での地獄絵巻的人々との生活、苦闘とこれに立ち向かう賀川の桁外れの強い精神力は人間業をはるかに超越していた。
ここで展開された賀川の四季折々の日本の祝い事行事、そして日曜日の神の集会に地上天使として働く女性が現れる。痒い所に手をのべ、黙って立ち働く其の姿に住民の頑なな心は潤されるのだった。のちの賀川ハル夫人である。

1913年(大正2)25歳
神戸スラム入り。
芝ハルと結婚

1914年(大正3)26歳
アメリカのプリンストン神学校へ。
ハル婦人は共立女子神学校に入学。
賀川は神学部に籍をおいて心理学教室で実験心理学、数学、生物学教室で比較解剖学、古生物学、遺伝発生学,胎生学さらに進化論を研究した。進化についてはダーウインの証する人間はサルの子孫だとし生存競争が宇宙を支配するという論に疑問をもち、植物の生命や、アリの社会組織や物理学の観察の中に、愛の本質である相互扶助のあらゆる証明を見出した。進化とはお互いの、有目的の進歩的な協同の中における神の法則による成長であり、愛の方式における相互自己体現の発見にはかならぬと結論するに至った。

1916年(大正5)28歳
ニューヨークでは労働者のデモンストレーションを見る。
賀川は強い刺激を受け、帰国後労働組合の運動のエネルギーと成る。

1917年(大正6)29歳
帰国。
ハル夫人も神学校卒業。
新川に帰った賀川夫妻は貧しい人々への無料診療所を開設。

1919年(大正8)31歳
鈴木文治と友愛会関西労働同盟を構成、理事長と夏、大阪市に購買組合共益社を設立。

1920年(大正9)32歳
普通選挙大示威運動を起こす。
神戸購買組合を創設。
死線越えて」を改造社から出版。

1921年(大正10)33歳
三菱造船所にストライキが起こり実行委員となる。
警察に幹部検束される。
杉山元次郎、らと日本農民組合を結成。

1922年(大正11)34歳
ハル夫人と台湾に伝道。
大阪労働学校を開校、校長となる。
長男純基誕生。

1923年(大正12)35歳
関東大震災。救援活動を開始。
関西で救助基金のため講演。洋書を基金のため販売。(現在の一億円相当寄付)本所に基督教産業青年会を設立。終日、東京を駆けずりまわって物資および精神両面の救援で賀川の身体はボロボロになっていた。慢性腎臓炎、両目はパンヌスで自分の手も見えなくなっていた。そこで家族は本所のバラックから武蔵野の松沢村に越して休養をとる事になった。失明状態1週間。

1924年(大正13)36歳
アメリカ大学連盟より招かれ渡米。
イギリス、フランス、デンマーク伝道講演そしてイスラエルを聖地巡礼。
貧民屈生活の中で尊い犠牲は夫人ハルが医者、看護士がわりとなって、地域の子供らに目薬の点眼をしてまわっている内に感染し失明した事だった。「なあに、まだ一つありますもの」と平然としていた。
賀川夫婦のキリストの贖罪愛の実践こそが、次々に迫る迫害、脅し、試練に勝る生きがいだった。むしろこうした苦難を喜んでいた。

1927年(昭和2)39歳
「百万の霊を神に捧ぐ」の標語のもと、全国にむけて大伝道を開始。
北海道から中国地方まで、集会は600回、聴衆25万人に呼びかけた。

1930年(昭和5)42歳
中国へ1ッ月の伝道旅行。
衆議院議員選挙杉山元次郎へ病床「気管支炎」をおしての応援。
横浜、岡山へ伝道。

1931年(昭和6)43歳
北海道へ伝道。
腎臓悪化。
中国、カナダへ伝道旅行。
小説「一粒の麦」出版。
海外へ伝道出発にあたりハル夫人に「今度はことによると、骨になって帰るかもしれないが、どんな事があっても、神を信じて心を乱す事がないようにね・・」ハル夫人はおおきくうなずいて「はい、よくわかりました」とじっとうつ向いた。

1932年(昭和7)44歳
黒田四郎と1ッ月台湾伝道。
12月宮崎県小林町を最後に5年の「神の国運動」の伝道終了。

1934年(昭和9)46歳
フイリピン伝道。

1935年(昭和10)47歳
オーストラリア建国百年記念伝道におもむく。
アメリカキリスト教連盟の招きで渡米。

1936年(昭和11)48歳
オスローで開催の世界日曜学校大会で講演。
ヨーロッパ各国、イスラエルを巡礼。

1938年(昭和13)50歳
満州伝道のため神戸を出発。
インドマドラスにおける世界宣教大会に出発。

1941年(昭和16)53歳
キリスト教平和使節段の一員としてアメリカに出発。

1942年(昭和17)54歳
満州各地に伝道。

1943年(昭和18)55歳
反戦思想の理由で神戸相生橋に留置。
反戦的行為ありと東京憲兵隊本部の取調べを受け公的な宗教活動も困難と成る。

1944年(昭和19)56歳
満州各地に伝道。

1945年(昭和20)57歳
東久邇宮内閣参与となる。
日本協同組合同盟の会長となる。

1946年(昭和21)58歳
貴族院議員に勅撰される。
「キリスト新聞」創刊。
全国に黒田四郎と伝道巡礼を開始。

1947年(昭和22)59歳
全国農民組合長に推される。

1949年(昭和24)61歳
世界宣教協会と世界基督教教育者協議会の依頼でイギリス、ドイツ、フランス,北欧、北米を巡回講演。

1952年(昭和27)64歳
沖縄伝道。
世界連邦アジア会議を広島で開催議長となる。

1953年(昭和28)65歳
半年間ブラジル伝道。

1954年(昭和29)66歳
世界連邦運動副会長に就任。
世界基督教協議会第二回大会に出席のためアメリカに赴き各地で伝道。
第二回世界連邦アジア大会を開催大会議長。

1955年(昭和30)67歳
ノーベル平和賞候補者に推薦される。

1957年(昭和32)69歳
タイ国に伝道。
京都で第三回世界連邦アジア大会議長を務める。

1958年(昭和33)70歳
マラヤで開かれた国際協同組合同盟に日本代表として参加。議長となる。

1959年(昭和34)71歳
「宇宙の目的」出版。
「空の鳥に養われて」出版。
関西イエスの友聖修会を終え、病床悪化で四国伝道に伝道途上、心筋梗塞で倒れる。重態に陥る。東京の自宅に帰り養生。

1960年(昭和35)72歳
四月二十三日午後九時十三分、東京都世田谷区上北沢三丁目の自宅にて召天。

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